会長挨拶
日本伝統鍼灸学会について

日本伝統鍼灸学会
会長 和辻 直
日本伝統鍼灸学会は、2022年で50周年を迎えた学会です。本学会の目的は主に「日本伝統鍼灸の学術構築と確立」、それを達成するために「伝統鍼灸の研究・教育、普及・啓蒙の活動を通し、日本の鍼灸の発展に寄与すること」です。
日本鍼灸には、日本が古代から近世に至るまで中国から影響を受けて、日本の風土に適した伝統鍼灸へと変容してきた日本の伝統鍼灸と、明治以前から近代西洋医学の影響を受けながら現代まで発展してきた現代鍼灸という体系があります。それらを合わせたものが日本鍼灸です。このような背景は、明治以降の日本における鍼灸教育の制度による影響が大きく、現代医学にある科学思想は伝統鍼灸にある思想基盤とは異なります。現行の鍼灸師は、両方の医学思想・学術における長短を上手く活用できるようにしていかなければなりません。はり師・きゅう師養成施設である専門学校・大学などでは、主に国家試験のための知識教育偏重となり、伝統鍼灸学に関する学術教育が充分ではありません。現行の医療体制の中で特徴を持つには、伝統鍼灸学の素養を身につけることは重要です。本学会では、はり師・きゅう師養成施設の学生から熟練した鍼灸師までを対象に、日本伝統鍼灸学の学術における継承と発展に寄与している学会です。
また本学会の特徴は、21の日本の伝統鍼灸に関連する研究会・学会が賛助会員として参加している点です。このため主催する学術大会や研修会では伝統的な鍼灸技術を交流できる場となっています。さらに日本の伝統鍼灸が持つ有用性を明らかにしていくために、基礎研究、臨床研究、教育研究、文献研究、調査研究など多くの研究が行われており、いずれも地道な検証が必要となっています。
最近の世界情勢では、WHOが世界伝統医療戦略(2025年〜2034年)を打ち出し、加盟国が合意して10年間に伝統医療、補完医療、統合医療(TCIM)のエビデンスに基づく実践の発展を推進するという大きな節目を迎えています。
現在の本学会の取り組みとして、日本の伝統鍼灸の学術構築と発展のために、研究奨励、若手育成、学術交流を増やす、各流派の多様性を尊重し、基本の伝統鍼灸学術の修得、臨床技術の研鑽ができる場となるよう運営を進めております。また生命観、気の思想を活用した伝統鍼灸を継承、発展させていくことも重視しています。対外的活動として他学会や業界団体、教育団体などと連携し、日本鍼灸の必要性を高めていく努力しております。
本学会の伝統と特徴を活かして、さらに発展するように会員皆様のご協力をいただきながら、新たな運営と課題の解決に取り組んでまいります。
副会長挨拶

日本伝統鍼灸学会
副会長 浦山 久嗣
本会は、日本の伝統鍼灸を専門的に研究する国内唯一の学術団体である。しかしながら、実際の学術的基礎は中国伝統医学であり、日本的な要素は治療技術に偏る傾向にある。今後は日本の鍼灸史研究や学術思想史研究にも多く力点を置く必要があろう。
その手始めとして、日本の鍼灸医学史を略記して、私の挨拶文に替えたい。
Ⅰ.仏教医学
一般には、日本の鍼灸文化ついては7世紀ごろに中国大陸から朝鮮半島を経由して齎されたとされるが、現在、最古とされる鍼灸文化は、スイスアルプスの氷河から発見された約5000年前の「アイスマン」であり、ツボの位置に施された入れ墨であるとされている。であるとすれば、日本の鍼灸文化も、「入れ墨」とともに始まったと考えられ、アイスマンとほぼ同時期か、それよりやや早い入れ墨を有する縄文土偶であるとしても不自然ではないはずである。
古代日本の疾病観としては、原因を「悪霊」や「荒ぶる神」にもとめ、その対処法として「清め、払い、禊、祈り」などが行われたと考えられ、その一環として「入れ墨」が行われていた可能性は否定できない。
飛鳥時代に朝鮮半島から「仏教」文化とともに鍼灸医療も輸入されたが、この時代は純粋な中国医学ではなく、仏教医学、すなわち「アーユルベーダ」に基づく病理観が主体であり、鍼灸医療はそれを実現するためのオプション的マニュアルに過ぎなかったことは、日本最古の医方書である『医心方』にある基礎理論的内容が臓腑経絡説や陰陽五行説が皆無であることでも明らかである。
実際の中国医学教育が行われるようななったのは、政治制度としての律令制を導入し、教育制度もこれに倣った8世紀以降のことであり、しかも事実上は宮廷内の出来事でしかなかった。仏教の普及とともに民衆レベルでも仏教医学が浸透しつつ、医療の主体者である僧医が行っていたものは、日本独自に変化した鍼灸医療であった。
それは、最古層には日本のアニミズム信仰、すなわち神道思想があり、中層には仏教医学の病理観があり、表層のみ中国医学の治療マニュアルで覆う状況であった。つまり、日本の鍼灸文化は、各種の内容を融合させた「キメラ医学」であり、当初から日本独自の鍼灸医療であったとしか言いようのないものであったのである。
Ⅱ.『五輪九字明秘密釈』
最も強く影響したのは平安時代末期の真言宗の僧侶、興教大師・覚鑁(かくばん;1095-1144)の思想であろう。
大師の著書である『五輪九字明秘密釈』(ごりんくじみょうひみつしゃく)では、大日如来と阿弥陀如来を異名同体とする説を唱え、大日如来の真言(aア;vaヴァ;raラ;haカ;khaキャ)を五輪(=五大:地輪・水輪・火輪・風輪・空輪)と結び付けたのみならず、五大説(5 elements;地・水・火・風・空)と五行説(5 phases;土・水・火・金・木)とを五臓(脾・腎・心・肺・肝)を仲介にして融合させた。これにより、これ以後の日本人は哲学としての「五大」と「五行」の区別ができなくなり、多くの場合、現在に至って入りばかりか、現代中医学を介してこの混乱が世界中に蔓延しているのである。
Ⅲ.『立川流円覚経』
また、南北朝時代の成立とされる「五臓絵巻」の一つである、作者不詳のいわゆる『立川流 円覚経』(たちかわりゅう・えんがくきょう)には、左右の寸・関・尺の脈診図とともに、「五臓の色体」と呼ばれる「五大」や「五行」など20項目の傍通表が記載されている。さらには15種類の「腹蟲図(ハラノムシず)」があり、最後には「五臓の根焼」なる用語も登場する。
「五臓の色体」とは、現在の鍼灸教育でも使用される「五行色体表」に直接繋がる鍼灸文化であるが、江戸中期以後は仏教色が排除されたことで、一見、純粋な中国医学における基礎理論のエッセンスのように見えているものである。
「ハラノムシ」とは、鎌倉時代に始まった新田開発に並行して普及した人糞肥料が原因する、内部寄生虫の蔓延に伴って形成された日本独自の病理思想で、打鍼術のルーツであり、日本人の心理表現にも多大な影響を与えた病理観である。
「五臓の根焼」とは、背部腧穴に多壮灸を行うことで、前世の業を断ち切ることで、仏典では不治とされる業病を根本治癒に導こうとする思想である。これによって、健康を回復するのみならず、宗教的宿業からも解放されることを目指す、極めてお手軽な治療法である。
Ⅳ.清朝太医院鍼灸科
清朝中期ごろ(1622、道光2年)に、「鍼灸の一法は、由来すでに久し。然れども鍼をもって刺し、火をもって灸するは、究むところ奉君の宜しき所に非ざれば、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と為す。」として、勅命によって宮廷医院内にある国立の医療機関である「鍼灸科」が廃止されると、中国における鍼灸医療は急速に衰退の一途を辿った。それでも民間療法としては細々と存続していたが、アヘン戦争・日清戦争・辛亥革命という西洋近代化の波に押され、一時的ながら、中国の伝統医学全体がほぼ絶滅状態となってしまったといえる。
なお、日清戦争以降、日本の影響が絶大であったことは鍼灸分野においても例外ではない。戦前、東アジアの多くが実質的に日本の影響下にあった時代、中国の医学は全体的に衰退しかけていたが、鍼灸分野においては日本鍼灸の隆盛状況を見習おうと、積極的に日本鍼灸を学ぼうとする動きが現れた。その動きは戦後まで続き、日本の鍼灸教育や経絡治療による「古典鍼灸復興運動」の影響から、中国医学全体が再組織化されるようになった。
Ⅴ.一気留滞論
後藤 艮山(ごとう・ごんざん;1659-1733)の『先哲医談』(柳谷清悦編著1982年刊;48p)には、「乱世の人、その気 剽悍にして肝胆の気鬱 少なし。治世の人、その気 遊情にして肝胆の気鬱 多し。故によろしく熊胆をもってその鬱を開き、肝胆の気を達せしむべし。」とある。有名な「一気留滞論」の記述の一部であるが、興味深いことに、これ以前には中国においてもいわゆる「肝気鬱結」に関する具体的な記述は皆無である。中国では、これに類する記述は管見に入るものでは清の沈 金鰲(しん・きんごう;1717-1776)『雑病源流犀燭(ざつびょうげんりゅうさいしょく;1773)』には「肝気滞渋」なる病証があり、艮山のいう「肝胆の気鬱」に比較的近い病態といえるが、中国で「肝気鬱結」が一般化するのは、事実上、日清戦争以後であり、むしろ「一気留滞論」の思想が当時の中国医学に影響を与えたものと考えられる。
Ⅵ.日本近代鍼灸
明治4年(1871)、明治新政府(文部省)は「鍼治灸治を業とする者は、内科外科の指図を受けるにあらざれは、施術すべからず」という通達を発し、さらに医事政策の一環として、江戸時代から盲人鍼灸教育の場として営々と存続されてきた「鍼治療講習所」が閉鎖された。
これによって視覚障碍者の多くは生活の糧を失うことになったが、当時この講習所で学んでいた吉田 弘道(よしだ・こうどう)らは、後に、漢方医の有志とともに「温知社」を設立して漢方復興運動を繰り広げ、管鍼術の普及にもつとめた。
日本の医学博士第1号(1881)である東京大学(東京帝国大学の前身)医学部名誉教授の三宅 秀(みやけ・ひいず;1848-1938)は、『鍼治採用意見書(1887)』を起草し、「鍼は有効無害で盲人にさせてもよい」という結論を下した。明治政府はこれに論拠を得て同年から鍼治教育が再開されることとなり、明治11年(1878)には、視覚障碍者のための新たな救済措置として、京都に盲唖院(現・京都府立盲学校)が設立され、翌年から職業教育として「鍼按摩」が取り上げられたことにより、鍼灸治療は福祉政策の立場から事実上の容認となった。
さらに、直接的に交感神経と鍼療法における治効理論の関係が説明されるようになるのは、東京大病院兼医学校(後の東京帝国大学医学部)を卒業した外科医で群馬県立医学校初代校長・病院長の大久保 適斎(おおくぼ・てきさい;1840-1911)『鍼治新書(1892)』を俟たなければならない。
また、奥村 三策(おくむら・さんさく;1864-1912)は3歳で失明するも、元加賀藩医の久保三柳に鍼灸を、金沢医学専門学校の教員や学生から西洋医学の基礎を学び、三宅秀の娘婿である三浦 謹之助(みうら・きんのすけ;1864-1950;当時は東京帝国大学医学部内科教授)らと鍼の研究をも行った。著書に『鍼治学(1895)』『普通按摩鍼灸学(1904)』がある。また、河合貞昇は『鍼科全書(1891)』を、岡本愛雄は『実習鍼灸科全書(1900)』『実用鍼灸学初歩(1901)』を著し、鍼灸臨床の基礎教育としての西洋医学の習得に力を注いだ。
山口県の鍼灸師で「木田穴(いわゆる‘裏内庭’のこと。裏内庭は澤田健の命名)」の発明者でもある木田 正光(きだ・まさみつ)の『灸鍼穴決効用学(1895)』は、経穴部位と一般的な古典的主治(恐らく『鍼灸聚英』および『類経図翼』などからの折衷と思われる)を当時最新の西洋医学的な用語に翻訳している。以後、松元 四郎平(まつもと・しろへい)の『鍼灸孔穴類聚(1926)』や玉森 貞助(たまもり・ていすけ)の『鍼灸経穴医典(1926)』など、西洋医学的な解剖用語による経穴部位の表現や西洋医学病名による経穴主治は本書を嚆矢としたものである。